京都の片隅にある老朽化した架空の学生寮を舞台に、補修しながら現在の建物を残したいと考えて、不器用ながら奔走する寮生たちの姿を描いた京都発地域ドラマ『ワンダーウォール』。SWAMP(スワンプ)では先日公開された前編に続き、脚本を担当された渡辺あやさんのインタビューをお届けします。

 

男性なら絶対に感じただろう劇中の「あの」場面のこと、ご自身の創作に関わることまで、たっぷりとお楽しみください。

 


■前編はこちら

 

「怒り」はなかなか伝染しにくいけれど、「楽しい」という感覚は伝染しやすい

 

渡辺:『ジョゼと虎と魚たち』の頃は、今と比べたらまだまだ全然のんきに暮らせていたような気がします。私個人の感覚でお話しすると、「3.11」というのがとても大きくて、あの出来事をきっかけに「自分たちはいったいどんな社会に暮らしていたのか」ということをすごく突き付けられたような気がしてーー。

 

表現というものに関わる人間は、ああいったことが起きたときに「自分たちは何をやっていくべきなのか」ということを考えさせられたのではないかと思うんです。それまで書けていたものが書けなくなった人もいるだろうし、あの出来事を踏まえてやるべきことが変わった人もいると思うんですね。でも、なぜかこの業界の偉い人たちは、いまだにそういった声を理解していなくて「大衆が求めているのは、ただただ気楽に観られるものなんだ」と口々に言うんです。でも、果たして本当にそうなのかな、と疑問に思っていて。いまの若い人たちは、もっと必死で何かを探し求めている気が私はするんです。

 

――確かに、私もそう感じることがあります。

 

渡辺:今回のドラマに出演してもらったキューピー役の須藤蓮君と話していると、「自分たちの世代は明るい未来というものを想像できない」といった話題がよく出てくるんです。そういったことに対する危機感が、私たち大人には欠けすぎているんだと思うんですよね。そんな時代に若い子たちを置いてしまっているということの責任を、私たちくらいの年の大人たちは「俺の責任だ、私の責任だ」って本当は思うべきなんですよ。

 

私たちが既にこれまでやってきてしまったことは、残念ながらもう取り返しがつかない。それでも、少なくともいま「次の世代のために、自分は何が出来るのだろうか」と考えなければ、それこそ全てを彼らに押し付けることになってしまうと思うんです。しかも、社会の中で学生が政治的な発言をするということに対してのアレルギーが非常に強くて、大人たちはよくよく話の中身を聞かないまま、それを危険視して押さえ付けてしまう。ということは、彼らは全く良い状況を与えられていないにも関わらず、「自分たちでその問題をどうにか良くしていく」という手段さえ奪われている、ということになるんです。そんなことが許されて良いはずがない、と私は思うんですよね。

 

例えば、SEALDsの子たちは、私たちの世代がきちんとやらなければいけなかったことを「代わりにやってくれたのだ」と私は感じているんです。でも、実際に活動へ参加していた若い子たちに聞いてみると「大人たちは『片寄ったやつらがただカッコつけて騒いでいる』という文脈でしか、自分たちのやっていることを捉えてくれなかった」って言うんです。ということは、これは彼らの敗北ではなく、むしろ私たちの敗北なんですよ。

 

その一方で、若い子たちの中にも「何かに異議を唱える」とか「人と違う意見を言う」ことに対してアレルギーがある、という人も実は沢山いる。となると、今後「社会を変えられるかもしれない動き」のようなものがあるとしたら、それは一見したところ「デモとか運動には見えないようなものなんじゃないか」という気がしているんです。しかもそれはおそらく「怒り」という表現でもないような気がする。なぜなら、もはや私たちの中では「怒り」を受け止める能力が著しく衰えているから。

 

――だとすると、それは具体的にどのようなものだと思われますか?

 

渡辺:ひょっとすると、それはいわゆる「ゆるふわ」みたいなものなのかもしれない。きっと、もっと楽しくて、ポップに見えるものなんじゃないかなって思うんです。

 

――なるほど!「ゆるふわ」系とは意外でした(笑)。でも言われてみれば、『ワンダーウォール』のエンディングの合奏シーンなんかは、すごく解放的な雰囲気に満ちていますね。あのような感じが、これから広く共有していける感覚なのかもしれません。

 

渡辺:そうですね。「怒り」はなかなか伝染しにくいけれど、「楽しい」という感覚は伝染しやすいんですよね。

 

 

■次ページ:「私たちなりの方法論をいかにして見つけられるか」ということが、すごく大事だったんじゃないかと思うんです

 

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