佐藤泰志さんが手がけた小説『きみの鳥はうたえる』を『海炭市叙景』『そこのみにて光輝く』『オーバー・フェンス』に続いて、三宅唱監督が舞台を函館にして映画化。9月1日(土)より公開となる物語の主人公は、柄本佑さん演じる書店員の「僕」と、染谷将太さん扮する同居人の静雄、そして石橋静河さん演じるミステリアスな佐知子の三人。そんな彼らが、互いにくっついたり離れたりしながら、毎晩のようにお酒を飲み、クラブに繰り出し、ビリヤードに興じる「かけがえのない日常」を繊細にすくい取った青春讃歌です。

 

このたびSWAMP(スワンプ)では、『きみの鳥はうたえる』の監督・脚本を手掛けた三宅監督に単独インタビューを敢行。本作に「幸せ」が写っている理由から、三宅監督の「究極の映画愛」を育んだ驚きの映画体験まで、たっぷり伺ってきました。三宅監督がひねり出す「絶妙なたとえ話」と合わせてご堪能ください。

 

三宅監督が映画を撮るときに、ずっと心がけていたこととは?

 

――先日、早稲田大学の「マスターズ・オブ・シネマ」に講師として招かれていらっしゃいましたが、登壇されてみていかがでしたか?

 

三宅:自分が考えたことを素直に伝えてくれる学生が多いな、という印象を受けました。自分が学生の頃は、講演会場で手を挙げて名前を名乗って質問するなんて、すごく照れくさかった気がします。自分が10代の頃、アメリカのトーク番組「アクターズ・スタジオ・インタビュー」で学生が積極的に質問しているのを見るたび「すごいなー」と思っていたんですけど、いまの日本の20代の子たちはあの空気に似ていて、「垢ぬけているな」と感じることが多くて。

 

――たとえば、どんな時に感じますか?

 

三宅:20代のミュージシャンたちのインタビューを読んでいても、てらいがないというか、無駄に格好をつけていない感じがします。最近、山口に長期滞在してYCAM(山口情報芸術センター)で地元の中高生と一緒に映画を作っていたんですが、彼らも大人と接するときに、すごく素直に自分を表現できていると思えました。

 

――その年代だと斜に構えてしまうのでは? と思いますが。

 

三宅:僕はそうでしたね。自分が学生だった頃は、大人に馬鹿にされることとか未熟だと思われたりすることに、本当に腹を立てていたから、斜に構えていた気がします。いま大人になってからは、なるべく、大人と同じように接しようとは思っています。山口で出会った中高生たちも、素直だし、賢くて頭がいい。歳を取るほど、経験値が上がることで物事の判断は多少速くなっていくけど、一瞬の頭のキレや集中力は、絶対に彼らの方が上です。それに、嘘をついたらバレるので、すごく緊張感がありますね。

 

――なるほど。そういった意味でも「互いにいい時間が過ごせた」と。

 

三宅:変な意味ではなくリスペクトを受けているなと感じたし、僕もちゃんとリスペクトしたいと思ったから、フェアになれたような気がします。それってすごく健全だし、楽しいと思えたんですよね。映画監督は謎の職業なので「映画監督だから」って無駄に持ち上げられたり、ガードされるようなことも多いんです。そんな風に接せられてしまうと、僕はなんとなく馬鹿にされたような感じがしてしまう。

 

『Playback』という作品で、スイスのロカルノ国際映画祭に参加したときに感じたことがあるんです。初めて人前で映画を見せる体験でしたが、「観客」と「制作者側」という立場の違いこそあっても、ただ単純に同じ「映画を愛している人たち」というか、「対等な関係になれる空気感」がすごく心地よかった。そんな空気を早稲田でも感じられた気がします。

 

――三宅監督と言えば雑誌「POPEYE」で映画評を連載されていることもあって、「言葉の人」という印象があったんです。『きみの鳥はうたえる』を試写で拝見して改めて実感したのですが、三宅監督は「身体性と論理的な思考のバランス」みたいなものが、ものすごくうまく取れている人のような気がするんです。尋常ではないほど沢山の映画を観ながらも、片寄らずにいられる秘訣が知りたくて。

 

三宅:そう言ってもらえるのは有り難いですね。たいがい自己イメージって間違っていると思うので、それを前提にしゃべりますと、自分は直感的な人間だと思うんです。直感とか感覚みたいなもので作って来たし、小さい頃から自分はそれしかなかった気もする。でも映画ってチームで作る芸術なので、人と何かを共有しなければいけないときに、「感覚だよね」って言っても伝わらないから、どこかで絶対「論理」や「ロジック」が必要だろうと思っていて。「論理的に説明できるようになりたい」って、コンプレックスみたいにすごく真剣に考えていた時期がありましたね。

 

――それはいつぐらいの時期ですか?

 

三宅:大学生から20代終盤にかけての頃は、「自分の考えをどれだけ感覚を抜きにして言葉で共有できるか」ということを意識してやっていましたね。

 

――論理的であろうと務めていたんですね。

 

三宅:はい。ただ、そのあと変遷がありまして。どこかで「それは捨てよう」と思ったんです。「俺はこうだと思う」って言ったあとに「なぜなら」って言わない。

 

――ということは、それ以前は常に「なぜなら」を心がけていたということですか?

 

三宅:はい。必ずしていました。

 

――へぇ~! 面白い。

 

三宅:いまはシチュエーションによって変えていますね。「なぜなら」って言うべきだなって思う時は言いますし。「俺はこう思う。以上!」ということもあります。それをどう使いわけるかは、正直ケース・バイ・ケースなんですが。

 

――その時々で、計算されているということですか?

 

三宅:いや、計算高くはないと思いますよ。基本的には「全部言いたい人」なので、単に我慢するだけ。

 

――「お任せするので自分で考えて下さい」って口では言っていても、結局全部説明してしまうような。

 

三宅:よくないなと思って反省することも多いんですが、でも、一緒に何かものを作るとき、本当に仲がいい人には全部言いますね。それこそ(本作の)プロデューサーの松井宏さんに対しては「考えながら喋っていた」と言ってもいいくらいです。俳優たちと接する上でも、ある程度はそんな状態ですね。だから時には言っていることが途中で真逆になったりして、混乱させているかもしれない。

 

――なるほど。

 

 

三宅:なかでも佑は話す機会も多かったので、 もしかすると役者に相談すべきじゃないことまで色々と話していた気がします。

 

――柄本さんとは以前から?

 

三宅:前から友人として付き合いはありますけど、映画で組むのは今回が初めてです。現場では、悩んでいることとか、わからないことも話していました。

 

――監督ご自身が?

 

三宅:そうです。一つ前の『密使と番人』の時もそうでしたが、「俺はこう考えるけど、どう思う?」とか「俺、ここから先はちょっと自分だけじゃわからないから、みんなで一緒にしゃべらせてよ」みたいな。山口でも中高生にたくさん聞いていました。

 

――コミュニケーションを取りながら撮っていくタイプなんですね。

 

三宅:頭数は多い方がいいし、楽しいので。森﨑東監督の現場に関わっていた照明技師さんに聞いた話によれば、森﨑さんは助手の方にも「お前、何かいいアイデアないか?」って聞きながら、みんなで作品を作っていたらしくて「すごく格好いい」と感じたんです。僕の場合も、撮影・照明・録音部のスタッフとは既に関係性が出来ているので、それこそみんな好き放題言ってくれるから(笑)。やるべきことを最初に僕が決めればいいだけなんです。

 

――なるほど。

 

三宅:実際に組んだことはないですが、おそらくバンドに似ているのだと思います。「僕はこんな風に音を鳴らしてみるけど、そっちはどんな感じ?」とか「きみがそんな風に鳴らすなら、僕はこう叩いてみようかな」みたいな。そういうやり方だとたまに不協和音が鳴り響くこともあるけど、あるとき奇跡みたいなことが起こる。映画もそうやって作っていけたら楽しいですよね。

 

コミュニケーションって、説明して合意するのが目的だけど、話しているうちになんとなくお互いの状態がわかってくる、というのがありますよね。いま「リラックスできているな」とか「集中しているな」とか。段々といろんなことが見えてくる。この映画の現場でも、人と人が喋っていて生まれてくる空気というか、突然「幸せ」になったかと思えば、「ものすごく緊張感を感じる」こともある。そういう空気が大事な映画だと思ったんです。

 

 

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