
初長編作『やくたたず』を撮り終えてから気付いたこと
――三宅監督はiPhoneで「無言日記」を撮り続ける中で、「道端の草花に目が行くようになって、世の中の見え方が変わった」とも仰っていましたよね。映画を観続けることもそうですが、継続することで何か見えてくるものはありますか?
三宅:別に映画って特別なものでもなんでもなくて、生活の一部にしたいと思っているんです。映画を観たり作ったりすることが、日常の中で「どんどんフラットになっていけばいい」という感覚で続けているんだと思います。
――もともと機材にはあまりこだわりがなかったそうですが、iPhoneで映画が撮れるなんて、いい時代になったと思われますか? それこそ昔は「フィルムで撮らなきゃ映画じゃない」と言われたりもしましたが。
三宅:個人的には「誰でも映画が撮れる時代になったことで、自分も映画が撮れている」と思っているので、明らかに恩恵は受けていると感じています。とはいえ、もちろんフィルムで撮れるものなら撮りたいです。
――撮った映像は「できるだけスクリーンで大きく見せたい」という願望も?
三宅:映画というものがそもそも、「実際の人生や世界より、ほんのちょっとだけ大きいもの」という気持ちはありますね。
――『きみの鳥はうたえる』には、主人公たちと必ずしも同じような体験はしていなくても、誰もが共有できる日常の感覚が描かれていますよね。「永遠に続くかのように思われたモラトリアムな時期は、あっけないほど突然終わる」という残酷さを、すでにその時期を通り過ぎた人たちは知っているし、渦中に居る人たちはちょっぴりそれを退屈だと感じている。でも振り返るとそれは「かけがえのない奇跡のような時間である」というような。
三宅:この映画の登場人物たちは、バイトを平気でサボってフラッと映画を観に行ったりもしていて。それこそ「生活の中で映画を観ること」を大事にしているんです。生きていくことと、映画を観たり、恋をしたり、本を読んだり、音楽を聴いたりすることが、まさしく一体になっているんです。そういうことをそっと教えてくれるような小説だから、映画もそうありたいと思ったし、できればこの映画を観終わったあとに、誰かとデートしたり、そのままクラブに行ったりするとか、生活の中でこの映画を楽しんでもらえたら嬉しいです。
そうやって過ごした時間全部が「特別なもの」にあとあと思える気がします。「特別なもの」は、決して「どこか遠くまで行かないと得られない」というようなものではなくて、もともと僕らはその「特別なもの」を持っている。普段はそれを発見出来ていないだけで、「もともとそこにある」と思います。
――初の長編作品である『やくただず』の時は「全部自分で責任を持ちたかったから、監督・脚本・撮影・編集のすべてを一人でやった」そうですね。でも「一人で出来ることには限界があるから、いろんな人の力を借りることで、より大きなものを作ろうとした」のが、村上淳さん主演の『Playback』だったと。『きみの鳥はうたえる』の場合、俳優にもしっかり寄り添っているうえに、さらに純粋な「初期衝動」のようなものを感じられたような気がして。
三宅:映画を撮るときには、自分では出来るだけ過去作品のことは意識せずに作っているつもりなんです。常に新しいことがやりたいから「前にやったことはもうやらないよ」っていうことを、なんとなく心掛けてはいるんですよ。これからもこういう青春映画を撮るかもしれないけど、もしかしたらこれが最後かもしれない。この年齢で撮れる青春映画っていう意味では、正真正銘この一本しかないわけで。俳優たちだって、いつまでも青春映画を演じられるわけではない。そういう意味では、「最初で最後のつもり」でこの映画を撮りましたし、いつもそれは変わらないです。
――たしかに三宅監督の映画には、『Playback』の村上淳さんを筆頭に、「その年代だからこそのリアリティ」みたいなものが如実に映し出されていますよね。そういう意味では、どこかドキュメンタリーに近い部分があるのかもしれません。
三宅:そうですね。ドキュメンタリー映画って本当に生々しいから、観終わった後にすごく引きずってしまうこともある。だからこそ、自分から積極的には観ないようにしていた時期もあったんです。でも、ある時から素直に「あ、いいな」と思えるようになってきて。
――たとえば、どんな作品ですか?
三宅:もともとフレデリック・ワイズマン監督とか小川紳介監督の映画が好きだったんですけど、小森はるか監督の『息の跡』は本当に大好きです。あとは酒井耕監督と濱口竜介監督の「東北記録映画三部作」と呼ばれるドキュメンタリーも本当に素晴らしいと思ったし、小林茂監督の『風の波紋』という映画も、自分の生活の支えになるようなところがあって、すごく好きでした。
――なるほど。
三宅:『やくたたず』や『Playback』を経てまとまってきた考えなんですが、「俳優から湧き上がる、その時にしか撮れない瞬間をどう記録するか」ということが僕にとっては重要だと気づきました。映画を演出するということは、俳優たちのいいところを発見して記録することだと思うんです。ドキュメンタリーだろうがフィクションだろうが、大事なのは「どう発見して、どう記録するか」ということだけ。『きみの鳥はうたえる』で求められたのは、まさにそういう仕事だったと思っています。
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