
現在公開中のアニメーション映画『ぼくの名前はズッキーニ』。2月28日(水)には、新宿ピカデリーでの上映後、『この世界の片隅に』を手がけた片渕須直監督とアニメ・特撮評論家の氷川竜介さんのトークショーが実施されました。
本作の表現方法から、アニメーションで描かれる映画についてのお話など、興味深い話題が満載だったトークショーの内容を、本記事にてレポートとしてお届けします。内容に関して触れている部分がありますので、鑑賞後にご覧ください。
『ズッキーニ』と『ハイジ』と『三千里』と『この世界の片隅に』
「ズッキーニ応援団」としてやって来たというアニメ・特撮評論家の氷川竜介さん。今回のトークショー実現について、
氷川「なぜこのタイミングで片渕さんと僕が呼ばれたのかなと思って、さっき楽屋で聞いてみたんです。ご覧なった方の満足度も高くて評判も上々なのですが、新宿ピカデリーの上映があと何週間続くかは、皆さんのTwitterなどのつぶやきによるのだと。それでピンと来たのですが、これは『マイマイ新子と千年の魔法』と同じ道を辿ろうとしている」
と、片渕監督が2009年に手がけた『マイマイ新子と千年の魔法』を引き合いに。同作は興行的に振るわず、新宿ピカデリーをはじめシネコンでの上映が早々に打ち切られてしまうも、スタッフとファンがともに少しずつ盛り上げていき、ラピュタ阿佐ヶ谷などで上映。そこから2016年の『この世界の片隅に』のブレイクへとつながります。
似たような境遇の『ぼくの名前は
片渕「『マイマイ新子と千年の魔法』という作品や『この世界の片隅に』もそうだったのですが、若い女性のお客さんがこういう映画があると気が付いて映画館に来るまでに、何週間かかかるわけです。こういう作品はそういう方々に観て頂けるといいかなと」と挨拶。
氷川さんは「片渕監督の作品が好きな方は、ぜったい観て間違いはないですよ」とアピールされ、トークショーがスタートしました。

▲本作の主人公・ズッキーニ。本名はイカールだが、不慮の事故で死んでしまったママに付けてもらった愛称「ズッキーニ」を大切にしている。
まずは本作と片渕作品の共通点に関してトークが進みます。
氷川「トークショーに向けて(本作を)再度拝見したんですが、片渕監督の作風に似てるなと思ったんですよ」
片渕「やっぱりそうなんですね。自分としても近い表現をされる方だなと思っていたんです」
氷川「児童文学系だけども、決して甘いわけではなく、ほろ苦いかというと、それだけでもなく」
片渕「あんまりファンタジーでもないですよね。でも、そこに出てくる子どもが愛おしくなる。そんな人間のリアリティを描こうとしているんだなと」
氷川「それと普遍性ですよね。こういう人たちいる、っていうことで構成されている」
片渕「シモンも悪役かなと思ったら、全然違うとかね。悪いやつが全然いないとか」
アニメーションという表現を用いて、普遍的な人間のリアリティを描く。そんな作品を手がけた監督のクロード・バラスさんの話題に。

▲画像左の男の子がシモン。孤児院にやってきたズッキーニを始めはいじめているが……。
片渕「監督のクロード・バラスさんには、僕が講師をやっている日本大学芸術学部で、授業に来てもらって話をしてもらったんです。『マイマイ新子と千年の魔法』も公開前に大学の教室で上映したことがあるのですが、学生がこういう作品をどういう風に観るのか知りたいと思いましたし、クロード・バラスさんのやり方をどう把握していくのかなと。決して派手ではないけど、実直に人間を描いていくのを、どういう手順でやっているのだろうか学生に見てもらいたいなと思ったんです」
氷川「バラス監督がアニメーションを作る動機って、どういうところにあるのでしょうか?」
片渕「始められたきっかけは分からないのですが、スイス出身の方で、日本の『アルプスの少女ハイジ』が好きなんですとおっしゃって(笑) 僕も以前スイスに行ったことがあって、そこで『ハイジ』の話をしていたら、『なぜ日本人がハイジの話をするんだ」って言われて。高畑勲監督の『アルプスの少女ハイジ』のことなのですが、スイスで作ったものだと思っている。それくらい彼らにとっては違和感なく受け入れられていて。バラスさんはそこに人間の表現とかを…」
氷川「読み取っているんですね」
片渕「高畑監督の表現を、真剣に観て撮ったっていう感じですよね」
氷川「監督にとっては義兄弟みたいなもんじゃないですか(笑) 高畑監督が始めた『生活を丁寧に描く』ということの流れになるわけですからね」
ちなみに、片渕監督は、若かりし頃、宮崎駿監督や高畑勲監督のもとで作品作りに関わられていた経歴があります。
片渕「決して派手ではないし、ハリウッド的な大きなことが起きるわけではないけれど、小さな生活の隅々をきちんと見渡して、その中に登場人物を置いて『人間ってこういうものだよ』という心情を語っていく。まさに自分たちがやりたいと思っていたことと、同じフィールドを目指している方だなと思いました」

▲ズッキーニの人形について解説する片渕監督。
続いて、特徴的な本作の人形造詣に関する話題に。
氷川「パンフレットにも、ものすごく誇張された顔だけど、作品の中に入りこめるということを書かれていましたよね」
片渕「実際の人形が(新宿ピカデリーの)ロビーにも展示してあるんですよね。大学で講義をしたときも、バラスさんが人形を持って来てくださって。粘土で出来ていてやわらかいのかなと思ったら、裏にマグネットが入っていたりして、けっこう固いんです。マグネットで眉毛や口や目を動かせるし、別の形をした口に張り付け直すこともできたりする。でも固いものというイメージが、動くにつれてどんどんしなくなっていくんですね。それが面白いなというか、素晴らしいなと」
氷川「ストップモーションアニメーション、日本だと人形アニメーションと呼ばれたりしますが、スイスでも作られているんでしょうか」
片渕「そこまでは分からないですが、こういうような作品にまで高めたものって、あんまり僕らも観てないですよね。人形アニメーションなんだけど、作品としての高まりをきちんと持っているというのは、なかなか」
氷川「短編だとあるかもしれないですが、長編では。しかも事件らしい事件も起きないですよね。スキーに行ったとかですけど、事件じゃないですもんね」
片渕「お化け屋敷に行ったとかね(笑)」
氷川「でも観終わった後に、彼らと一緒いた時間が残るというか」
話題は人形を動かすことの表現と、それによって感じることができるものの話へと深まっていきます。
片渕「僕も観終わって、もっとこの子たちと一緒に過ごしたいと思ったんですね。孤児院のまわりで輪になって寝転がっているポスターがあるのですが、そこに木の影が斜めにさしている。『この木の影がいいですね』とバラスさんに聞いたら、『これね、セットをばらすときに一番最後に撮ったものなんです』って。セットを解体しちゃうんで最後に撮ったようなんですが、その裏側は聞きたくなかったって気も強くて(笑) 心のなかにあの場所はいつまでもあって、子どもたちがいつまでもあそこにいると思えるのは、映画のマジックで良い所だと思うんですけど」
氷川「人形をどう動かすかということが、内容とイコールに近いと思うんですね。物語の動きとして、みんなすごくちっちゃく動いていますよね。特に『この世界の片隅に』って、作画枚数も増やしてゆっくり動かすことを心掛けたと」
片渕「日本アニメーション学会でシンポジウムとか研究会をやっているんですが、アクションものでは大きく動かして動きの派手さを見せるんです。逆にちっちゃくちっちゃく動かしていくと、リアリティというか存在感、アニメーションだから動かしているんじゃなくて、本当に動いているんだなという感じが出来上がっていくんだよね、というのを知覚心理学の先生たちと確認しながらやっていたんです」
氷川「2回目に鑑賞した時は、お話はわかっているのでそういうところも細かく観ていくと、普通人間が立っているところは(アニメーションでは)止めにしちゃうんですけど、ゆっくり動いてるんですよね」
片渕「なんかフラフラ動いている。子どもってそうだよねって。その動いているというところに、その人たちの存在を感じていく」
氷川「車の中ではズッキーニだけ動かないんですよね。それがだんだんと動き始めるようになるお話なのかなと」
▲公式サイトからも視聴できるパイロット版。ズッキーニの自然な仕草が素晴らしい。
片渕「あとパイロットフィルムがあるんですが、ズッキーニ君がオーディションに来るっていう(笑)」
氷川「この映画に出るための(笑)」
片渕「そのときにね、すごいモジモジしてるんですよ。その時点から、こいつはそういうやつなんだなって。そう信じさせてくれるアニメーションの動きを作る、っていうことをやっています」
氷川「描写が簡潔で無駄がないですよね。というより、生活描写ばかりだけど全部に意味がある」
片渕「シモンが悪役じゃないって分かるまでも早かったですよね。いつも悪態ついているけど、裏があるんだなって」
氷川「少ない人数の中で多様性も描いていますよね。孤児院にくる理由もバラバラだったり」
片渕「(アリスの)髪をあげたら虐待された傷があったり。シモンもよく見ると縫い跡があって。クロード・バラス監督は、制作にあたって自分でも実際に孤児院に行って、しばらく子どもたちと生活してみたそうです。ある種のロケハンなんでしょうけれど、見るだけでなく体験を積んできている。今日の気分の天気予報っていう描写もありましたけど、ああいうのは実際にあったことを見てきて感じ取ってきたと言っていましたね」
孤児院の話題から、片渕監督の「推しキャラ」のお話に。
氷川「片渕さんのオススメのキャラクターは?」
片渕「バラス監督が来日されたときに、ズッキーニの人形は持ってきたけど、なんでカミーユを持ってこないんだって(笑)」
氷川「もしかして、フィオリーナのことを思い出したりしませんでしたか?」
片渕「ちょっとそうですね。高畑勲さんでいうと、(フィオリーナは)『母をたずねて三千里』のヒロインですが、そういう意味で言うと、(カミーユは)日本的な美少女じゃないんですね。ヨーロッパにいくと、こういう顔立ち―こんなに目がデカくて丸い子はいないんですが―いるよなって思っちゃったりするんですね」
氷川「目が大きいのは、この作品の特徴ですよね。日本の目の大きさとはちょっと違って」
片渕「この目が動いて表情を放っているんですよね。目が泳いでいるシーンもあって、それがすごく大事な感じがしますよね。まぶたが半分降りていて、ぼんやりしているように見えるけれど、これが表情になっている」

▲片渕監督お気に入りのカミーユは、中央のズッキーニの右上の女の子。
片渕「僕がいちばん好きなシーンは、最後のほうにみんなでお尻を出すところがありますよね。これから別れが待っているし、いろいろ背負っていた子どもたちだけれど、屈託がない感じが生々しく出ていて。カミーユは、さきほどフィオリーナみたいとおっしゃいましたけれど、高畑さんが描いたフィオリーナは影のある女の子だったんです。主人公よりちょっと背が高くて、大人びている。そういう影があったカミーユがお尻を出して、目を見開いて笑うんですよね。カミーユの中にある子どもらしさを見たという気がして、引き込まれるんです」
氷川「境遇として大人を演じないといけないということが、カミーユにもフィオリーナにもありましたよね」
片渕「裏に事情がたくさんある子どもたちですけれど、最後の瞬間に子どもに還る。それが可愛らしくて」
▲『母をたずねて三千里』より。主人公・マルコの横にいる女の子がフィオリーナだ。ミステリアスな少女像は『新世紀エヴァンゲリオン』の綾波レイなどにも通じる。
画像出典:http://images-jp.amazon.com/images/P/B00005EDI9.jpg
氷川「映画の中に意味がいっぱいある作品ですが、警官がサボテンとかを育てているのも意味があるんでしょうね」
片渕「トゲがあるものをあえて育てていますからね。おそらくトゲがあっても、俺はこいつらの味方なんだみたいな。あの人が父親になろうとしたときに、カミーユと2人でなんだと言うのは、そこまで見ている人なんだなと感じました。自分の気持ちだけではなくて、子どもたち自身はどう思っているんだろうな、ということまで見ている大人だと思って」
氷川「あの警官自体も子どもに逃げられたと言っていたので、年齢差こそあれ、傷ついているのは同じだと」
片渕「そういうことに自分たちが感動したり心震わせることができると、そんな自分に出会うことができる映画なんだなって思えて、すごく大事な気がします。僕はこういう作品を観て、(登場人物の)子どもたちや大人を観て、震えるような感情に触れて自分にはまだそういうものが残っていたんだなと、気づかせてもらったような気がするんですね。そういう意味では、魔法も出てこないし大きな事件も起こらないし、SFでもない映画でありながら、確実に自分に重なって来て自分の中にある何かを見つけ出してくれる映画だなって思います」
そんな珠玉のアニメーション作品ですが、取り巻く環境で言われることが多い意見についても言及されます。
氷川「同じアニメーションの作り手として、なぜアニメーションにはそういうことが可能なのかと」
片渕「実写でやればいいじゃないかっていう」
氷川「これは友人と話したことですが、実写だったらお母さんが転倒して死ぬところで、その先が観れなくなる。辛すぎて」
片渕「そうですよね。アニメーションでご飯をたべるところを描くと、実写だと食べているところを撮るだけになるけれど、そうじゃなくてご飯に意味が出てくるみたいなね。何気なく観ているものでも、アニメーションでは全部誰かが描いていたり、人の手や心が介在しないと表現が生まれないものだったりしますから。だからこんな表情を作る人がいるんだって、自分が反応しているんじゃないかな」
氷川「人の存在を感じ取りながら、表面的なキャラクターとしても観ている」
片渕「これを観てね、自分もまんざらではないなって思わせてくれる」
氷川「自分の心にあるものを見ることができる」
片渕「それが何なのかを、際立たせて見せてくれている気もするわけですね。こういう大きな目や極端な等身の付け方をしているんだけれど、際立って発することができる。その部分に反応する自分がいるという関係じゃないかなと」
氷川「人形でやることで物凄い手間がかかるじゃないですか。そういうところも含めて、重みとして感じているわけですか?」
片渕「そうなんです。僕らは紙に鉛筆で動きを描いて、ダメだったら消しゴムで消せばいいんですけど、人形アニメーションって、どうやって最初からきちんとした動きを作るんだろうって、不思議だったんです。それもバラス監督に実際に聞いてみたんですけどね、何回もリハーサルをやっているみたいなんです」
氷川「そういうことなんですね」
片渕「凧が最初に飛んできて地面に落ちるカットだけでも、何回もやり直して、こういう動きだと確認できたところで実際にやっていると」
氷川「今はデジタルの時代ですが、そういうのは少しずつ動かすことに変わりないですよね」
片渕「そうなんです。アニメーションは全部手間がかかるわけですが、そういう風にして色んなことを踏まえたうえで、ここに至っているんだなと思いました。自分が作った『この世界の片隅に』は、おかげさまで凄くお客様に入って頂けるようになったんですけれど、それ以前に作って来たものって(苦笑)
次になかなかいけず、1本作るのに7年とかかけながらやってきたんですけど、そういうときに作り手として思うのが、自分たちがやったものを認めてくださる方が1人でもいてくださるのはありがたいんですけど、もっとたくさんの方に映画の存在に気が付いて欲しいなということなんですね。今日おそらくここに来ていらっしゃらない方は、気が付いて頂いてないから来ていないだけなんだと思うんですよ。存在に気が付いて頂けたら、もっとたくさんの方とズッキーニやカミーユたちが出会えるんだと思うんですけど」
片渕「この作品も大事ですけれど、世界ではいろいろなアニメーションが出来上がっているんですね。それがたくさんのお客さんに評価されて、こういう作品でも映画館にかけてもいいんだなっていうことが認められれば、もっとたくさんのものに僕らは触れることができるような気がするんです。僕はこの作品を応援したいですし、その先にあるものに関しても、皆さんと出会える道ができるといいなと思います」
氷川「まずは仲間みたいな作品がいて」
片渕「この作品は、応援する意味が自分としてもありました」
以上でトークショーは終了。世界に広がるアニメーションの魅力、これからも「SWAMP」では追求していきます。
SWAMPER's EYE!
こちらは劇場ロビーに展示されていたズッキーニ。トークショー終了後は、写真を撮る観客の皆さんに囲まれていました。ちょっとだけ照れくさそうな表情をしているなと感じるのは、僕だけでしょうか。
人形アニメーションの魅力は、普段見慣れている絵を動かすアニメーション・アニメとは異なり、元々存在感がある人形が動くというところだと思っています。
人の姿をしつつも、人ではないもの。人形を操り人の生き様や営みを描くということ。
そんなちょっと特別で、当たり前のこと。『ぼくの名前はズッキーニ』という作品を通じて、見つめなおしてみませんか?
『ぼくの名前はズッキーニ』作品概要
監督:クロード・バラス
脚本:セリーヌ・シアマ
原作:ジル・パリス「ぼくの名前はズッキーニ」(DU BOOKS 刊)
原案:ジェルマーノ・ズッロ、クロード・バラス、モルガン・ナヴァロ
アニメーション監督:キム・ククレール
人形制作:グレゴリー・ボサール
音楽:ソフィー・ハンガー
スイス・フランス/2016 年/カラー/66 分/ヴィスタサイズ/5.1ch/フランス語/原題:Ma vie de courgette/後援:スイス大使館、在日フランス大使館/アンスティチュ・フランセ日本
配給:ビターズ・エンド、ミラクルヴォイス
宣伝:ミラクルヴォイス
公式サイト:http://boku-zucchini.jp/
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