
8月18日(土)から公開となるセバスチャン・ローデンバック監督によるアニメーション映画『大人のためのグリム童話 手をなくした少女』。去る7月9日(月)、来日したローデンバック監督による舞台挨拶付きの先行上映会が開催され、スペシャル・ゲストとして『この世界の片隅に』の片渕須直監督が登壇。日仏の両アニメーション監督による貴重な対談の模様をレポートします。
※本記事には、『大人のためのグリム童話 手をなくした少女』と『この世界の片隅に』両作の内容に触れている部分があります。
『大人のためのグリム童話 手をなくした少女(以下、『手をなくした少女』)は、19世紀に初頭にグリム兄弟によって書かれた『グリム童話』の初版から収録されている民話『手なしむすめ』を、フランスの新鋭セバスチャン・ローデンバック監督が、「クリプトキノグラフィー」と呼ばれる作画技法で甦らせたアニメーション作品。両腕を奪われた少女が、数奇な運命に翻弄されながらも、自分だけの幸せを見出していく様が、水墨画を思わせる筆致でエモーショナルに描き出されます。
ローデンバック監督は、なんと全ての作画をたった1人で手掛けるという偉業を成し遂げ、アヌシー国際アニメーション映画祭審査員賞&最優秀フランス作品賞をダブル受賞。東京アニメアワードフェスティバル2017でも長編アニメーショングランプリに輝きました。
このイベントの前日、東京藝術大学の横浜校地 馬車道校舎においてローデンバック監督を講師に招いた公開講座が実施されたのですが、そこでローデンバック監督がこれまで手掛けた作品に触れ、『手をなくした少女』の制作秘話を聞き、「ローデンバック監督が1人で『手をなくした少女』を完成させたという事実に驚きを隠せなかった」という片渕監督。しかも「出来るだけ早く描こうと試みたことから、あの作画技法に至ったというのが印象的だった」のだと言います。
さらに『手をなくした少女』を通じて「ローデンバック監督の表現の自由さに魅かれた」という片渕監督は、「我々の表現はどこか形骸化してしまっているのかもしれない」と日本のアニメーション制作の現状を分析。「(『手をなくした少女』は)そんな日本の現状に新しい風を吹き込んでくれたようで、ものすごく刺激的だと感じました。ローデンバック監督の作品を日本に紹介するための手助けが出来れば」と語るなど、イベント開始早々、いきなり会場のボルテージは一気に上がりました。
一方、「片渕監督の『この世界の片隅に』を拝見して非常に動揺した」と語るのはローデンバック監督。なぜなら『この世界の片隅に』と『手をなくした少女』との間に、数多くの共通点があると感じたからだそう。
「片渕監督の作品と私の作品に共通するのは、アニメーションの表現方法をフルに使って人間の営みを深く描く、という試みがなされていること。『この世界の片隅に』はデッサンも演出も非常に繊細ですし、苦しみや痛ましさ、恐怖を扱う、本当の意味での映画に立ち会っている感動がありました。とりわけ原爆が投下される場面では、映像も演出も音も、そこで起きたことの凄まじさがそのまま表現されていて衝撃的でした。『この世界の片隅に』と『手をなくした少女』は、時代背景こそ違いますが、いずれも主人公が少女であり、社会的な抑圧によって、どちらも必ずしも彼女が行きたいとは望まなかった場所に行く。しかも、偶然この2人の少女は手をなくしてしまうのです」
実は、昨年南フランスにあるアニメの工房と教育施設を兼ねた場所を訪れたという片渕監督は、そこに『手をなくした少女』のポスターが張ってあるのを目にして、どこか運命的なものを感じたのだそう。というのも、そのスタジオは『手をなくした少女』の原型となった作品を制作していた際に協力していたという繋がりがあったからなんです。ローデンバック監督は、本作が作られた背景についてこう語ります。
「片渕監督にも『自由な表現』だとコメントいただきましたが、確かにこの作品を作っていた時は『本当に自由だ』と感じていました。それはおそらく、私にお金が無かったからなんです。貧乏だったからこそ、自由でいられたのだと思います。プロデューサーもいませんし、私にプレッシャーを掛けてくる存在は何ひとつありませんでした。そういった意味では、私はこの映画に登場する少女と同じような境遇でした。作品制作を通じて、私も少女と同じ道筋を辿ったのです。もともと『手をなくした少女』は今とは全く違う、100年前から採用されている伝統的な作画方法で制作されるはずの作品でした。その作品はアニメスタジオと一緒に作る予定だったので、プロデューサーもいましたし、脚本もありました。つまり城に閉じ込められた少女のような状況にいたわけです。そこに運命が訪れて、結局最初に作るはずだった企画は頓挫してしまい、最終的にたった1人でこの作品を作らなければならなくなった結果、とても自由なやり方で制作することが出来たんです」
これには片渕監督も共感するところが大いにあった様子で、「実は控え室ではお互い家計の話をしていたんです(笑)。『どれくらい貧乏な時期がありましたか?』という話題で盛り上がりました」とコメント。
一方「こういった技法を選んだことで『アニメーションがどのような言語を獲得したのか』ということに興味がある」と語るローデンバック監督は「そこに描かれている主題以上に、映像言語を発見している。おそらくそこが私と片渕監督の作品の共通点ではないか」と分析。さらに「片渕監督と私の作品だけでなく、高畑勲監督の『かぐや姫の物語』も含めて、このたった数年間に作られた3つの作品に共通点が多いのはなぜなのか、と常に自問自答している」「物語の中心に少女がいて、その少女が世界的に制約のある状況を生きている。さらに、少女は自由な生き方を見つけるためにほかの場所に行く。しかもいずれもアニメーション制作における新しい方法を発明していて、それが作品の中心をなしている。その発明は非常に力強く、驚きに満ちあふれているのです」と持論を展開されました。
すると今度は、片渕監督がご自身の『手をなくした少女』論を披露。ここからは、お2人の刺激的な掛け合いをノンストップでお楽しみください。
片渕監督:たまたま私の家にあった『グリム童話集』なんですが、『手をなくした少女』はたったこれだけしかページがないんです(実際に本を手に持たれる片渕監督)。これが長編アニメーションになるというのも驚きです。冒頭はもともとの文章にそのまま肉付けしてあるんですが、セバスチャンは1人で描いているから、どんどん即興性が加わっていっているわけなんです。川の女神はもともと童話には居なかった。でも、どうにかして(少女に)川を渡らせなければいけない。彼は描きながら女神を思いついて、どんどん物語が変わっていったそうなんです。
一番最後に、ローデンバック監督は、母になった少女と子どもが鳥になって飛び立つシーンを描いたわけですが、あれは完全に原作にはない展開です。しかも王子も鳥になって一緒に飛んでいく。つまり、あらゆる束縛から逃れて自由になって、飛び立っていく。それこそがこの作品の制作姿勢のように感じるんですね。逸脱することで自由を得て、即興的に物語を書き換えて行く。それを彼らが鳥になって飛び立つことで最終的に表している気がするんです。
ローデンバック監督:それはまさに、この作品を作りながら私自身が感じていたことでした。大抵のアニメーション制作のプロセスは、それまでに準備していた脚本やストーリーボードを、ただ実行に移すだけの作業なんですね。今回、私はそれを一度、疑問視してみることにしました。つまり、人物を動かす作業をそのプロセスの核心に置きなおしてみたんです。この作品は、物語の時系列に沿って頭から順番に作っていったので、まるで私自身が登場人物であるような、登場人物の人生を作りながら私自身が生きていたような感覚がありました。つまり、私自身が作品の俳優であり、観客であるようなイメージでこの作品を作っていったんです。
片渕監督:『手をなくした少女』はすごく簡単に省略されて抽象化された画であるにも関わらず、少女が動き出した途端「確かにこういう人が存在しているんだな」という、人格めいたものを感じるわけなんです。しかも即興的に違う方向に描き進めながら、その人格は決して揺るぐことがない。ローデンバック監督は、どこに芯を置いて作られたのか。そもそもあの子には名前がないのだろうか、というのもすごく気になって。
ローデンバック監督:それは私にもわかりません(笑)。ご指摘の通り、原作はほんの数ページしかありません。つまり原作における登場人物たちは、ある種の原型でしかないんです。私がこの作品を作るにあたってとりわけ労力を割いたのは、原作にある原型をリアルな人物に作り上げると同時に、それらの人物を普遍的な存在にすることでした。そのため、少女には名前がないんです。とはいえ、その一方で少女が単なるアイコンに陥ることなく、1人の人物として作品の中で生きられるように心掛けました。
『手をなくした少女』はアニメーション作品なわけですから、そこには線と色があるだけで、もちろん少女には心臓がありません。つまり、少女の心臓をどのように動かすか、ということを通じて少女を作品の中に存在させたんです。
この作品の主題は「少女がよりよい人生を目指して、それに向かって歩いていく」というもの。私にとってとりわけ重要だったのは、その少女の動きをアニメーションとして作ることでした。さらに言うと、この作品は、少女が大人の女性になる物語でもあるわけです。つまりは「どうやって少女の肉体の変化を描いたらよいのか」ということ。またそれに加えて、少女は「手」という肉体の一部を切断されてしまう。その肉体をどう描くのかということも、この作品にとって非常に重要だったんです。
「自分自身の肉体はどうあるべきか」という主題は、普段誰もが語りません。実は先週、この作品を日本の中高生に観てもらう機会があったんです。私にとって若い観客にこの作品を観てもらうことは、とても意義のあること。というのも、結局のところこの物語は「少女は王女になるよりも、少女のままでいたほうがいい」という作品だからなんです。
片渕監督:普通は「穢れがない」と言えば、セクシャルなことから隔離されていることを意味しますよね。しかし、この作品においては「穢れがない」ことに悪魔がおののくのではなくて、そういうものも全部ひっくるめて「肉体を持っている女の子だからこそ、悪魔がおののくんだ」という部分にとても感銘を受けました。
ローデンバック監督:お話しながら片渕監督の『この世界の片隅に』のことも思い出していました。『この世界の片隅に』の中には、家族の日常の小さな身振りがデッサンとして細かく描かれています。でもそれは、世の中の多くの作品ではあまり試みられていないことなんです。
片渕監督:私もそう思います。作り手であれば『この世界の片隅に』と『手をなくした少女』の表面上の違いに目が行くというよりは、「この2人は同じことをやっているんだな」「こういう風にこの人は挑んでいったんだな」ということがわかるはず。何よりも、1人の少女の人格をどうやったら動きで表現できるのか。「本当にそこに居るんだな」と感じられるようにするにはどうすればいいのか。それを動きで作り上げていくという工程は、何となく想像がつく気がするんです。
ローデンバック監督:確かに私たちが手掛けているアニメーションの多くは、人物の動きや身振りで表現されています。つまりデザインではない。これはおそらく、アメリカのアニメーション作品との大きな違いだと思います。アメリカのアニメーションの場合、動きや身振りももちろんあるんですけれど、それ以前にキャラクターのデザイン自体で既に何かを表現するようなところがあると思います。一方、私たちが作り上げた少女は非常に少ない線で描かれているので、静止画になってしまうとあまり語られているものはない。ところが、ひとたび少女が動き出した途端、多くのものを語り始める訳です。
アニメーションというのは極めて奇妙な表現だと思います。完全なる人工物です。でも、アニメーションを通して非常に深い人間性やリアルを描けるんです。とはいえ、ただ単に現実を模写するのではなく、アニメーションとして現実をいかに再解釈して描くか、ということこそ我々は大切にしています。一旦現実から離れることで、私たちは物語を描いているのです。
片渕監督:『手をなくした少女』では1人の少女の魂の解放が描かれますが、解放されたとき、彼女自身は決して独りぼっちではない。子どもやパートナーにも恵まれて、彼女が本当の意味で解放されたんだな、ということが分かる感じがするんです。自分の家族を作り上げていく力も同時に得ていったのだな、と感じられました。
ローデンバック監督:実は、ラストシーンを巡っては、プロデューサーと大論争になったんです(笑)。「王子と再会したときに、少女はもう王子を必要としていないわけだから、王子を捨てて、1人で飛び立つべきだ」というのがプロデューサーの意見でした。プロデューサーは「王子は本当にダメな奴で、少女には必要ない」という考えだったんです。けれども、私にとってはこの点は非常に重要だったので、プロデューサーと徹底的に闘いました。
確かに、少女は王子なしでも生きていけるし、手がなくても1人で生きていけるわけです。とはいえ、必ずしも1人であることが、自由を保障しているわけではありません。確かに「王子なしで生きていく」という選択肢もあるとは思いますし、必ずしも彼女は王子を必要としていないかもしれません。ただ、彼女の方が、王子を欲望するという可能性もあるわけです。それに、人は必ずしも100パーセント素晴らしい人間でなければ欲しない、というわけでもありません。
片渕監督:私には、王子が城を捨てて少女と子どもと一緒に羽ばたいていくことが、もの凄く救いになっているように見えるんです。
ローデンバック監督:確かにそうだと思います。王子は飛び立つまでにちょっと時間がかかってしまうんですが、最終的にはちゃんと飛べるんです。先程「王子はダメな奴」だと言いましたが、本当はダメではないんです。ただ単に、物事を理解するのにちょっと時間がかかってしまうだけ。でも、世の中の男の子は、大抵そういうものですよね(笑)。
SWAMP(スワンプ)では、セバスチャン・ローデンバック監督の単独インタビューも近日公開いたします。どうぞお楽しみに!
(写真・加藤真大)
『大人のためのグリム童話 手をなくした少女』
8月18日(土)よりユーロスペースほか全国順次公開
公式サイト:http://newdeer.net/girl/
(c) Les Films Sauvages - 2016