
今から40年以上前、山形県酒田市に映画評論家の淀川長治さんが「世界一の映画館」と称した伝説の映画館「グリーン・ハウス」があったことをご存知でしょうか? 1976年に「酒田大火」と呼ばれる火事の火元となって消失してしまった「グリーン・ハウス」の魅力を紐解く『世界一と言われた映画館』という名のドキュメンタリー映画が、1月5日(土)より劇場公開されます。
2018年2月に急逝した名優・大杉漣さんのナレーションにのせて贈る、忘れ難い場所を心に持つ人々のトリビュートフィルムです。このたびSWAMP(スワンプ)では、本作を手掛けた佐藤広一監督にインタビュー。映画監督になるまでの紆余曲折から、大杉漣さんと本作にまつわる意外なエピソード、そしてドキュメンタリー映画ならではの予想のつかない展開まで、たっぷり伺いました。
自主制作映画と浅野忠信さんと「寅さん」
——日本にこんなに素敵な映画館があったなんて、この映画を観るまで全く知らなかったんです。山形の方は、皆さんご存知なのでしょうか?
佐藤監督:僕はちょうど火事が起きた翌年に生まれたので、もちろん見たこともないんですが、山形の映画関係の人は皆「グリーン・ハウス」のことを知っていますね。山形で映画館を作る時に避けては通れない場所なんです。
——佐藤監督は山形県天童市のご出身だそうですね。どのような経緯で映画監督になられたんですか?
佐藤監督:もともと自主映画を撮っていたんです。最初の頃はある種パクリみたいなものばかり作っていましたね。北野武監督の『HANA-BI』をモジって『HANA-JI』とか(笑)。
——えー!? パロディーですか?
佐藤監督:そうです。最後に鼻血が出るんです(笑)。
——ははは(笑)。映画を専門的に学ばれた時期もあるんですか?
佐藤監督:実は、20歳くらいのときに当時建設中のホテルに就職が決まったんですが、ホテルの完成まで1年近く猶予があったんです。ちょうどその頃、新潟で手塚眞監督が『白痴』という映画を撮影されていて、その撮影に合わせて開講された「にいがた映画塾」というワークショップへ参加したんです。平日の昼間は『白痴』のスタッフとして照明部のボランティアをやりながら、週末は講座を受けるという生活が3〜4か月続きました。
——『白痴』は浅野忠信さん主演ですよね。
佐藤監督:そうです。当時、加瀬亮さんが浅野さんの付き人をされていて、撮影以外の空き時間は加瀬さんと一緒に遊びまわっていたんですよ。浅野さんも4つぐらい年上なんですが、ほとんどお兄ちゃんみたいな感じでしたね。「ホテルにビデオデッキがないから貸してくれ」って頼まれて、浅野さんに私物のビデオデッキを貸しました(笑)。
——そのあと無事に就職はされたんですか?
佐藤監督:一応ホテルマンとして就職した事はしたんですが、映画の現場が面白すぎて「俺、やっぱり映画作るわ」って、5か月くらいでやめちゃったんです。
——わ〜。やっぱり!
佐藤監督:そのあと映画センターという会社に4年ほど勤めて、神社の境内とか学校の体育館なんかで、主に文化映画を上映したりしていたんです。恩地日出夫監督が『蕨野行』という姥捨て山をテーマにした映画を山形で撮影する企画があって、その制作と配給を手伝ったりもしましたね。
——その間も自主映画を撮り続けていたんですか?
佐藤監督:「1週間まとめて休みをください」とお願いして、つぶれかけの銭湯を守る兄弟を主人公にした『銭湯夜曲』という30分位のドラマを作って「山形国際ムービーフェスティバル」に応募することにしたんです。なんとその作品が入選して、スカラシップの200万円で『隠し砦の鉄平君』という長編映画を作りました。
——そこからついに監督業に専念されたわけですね。
佐藤監督:いや、それが……。長編を1本納品した途端に何もやることがなくなってしまって、2か月くらいは毎日3本ペースでひたすら『男はつらいよ』シリーズを観ていました。
——なるほど。「寅さん」に救われたわけですね。そのあとどうされたんですか?
佐藤監督:主に地元企業から依頼されて映像制作の仕事をしていました。実は「ふるさとCM大賞」という地元テレビ局主催のコンテストに参加するためのCMを、かれこれ13年間毎年作っているんですよ。
——どんなCMですか?
佐藤監督:天童市は「将棋の駒」が有名なので、それにちなんだ学園モノです。先生が出てきて「今日から山形県の通貨は将棋の駒になります」って宣言して、生徒が「え〜!?」って騒ぐような(笑)。でもおかげさまでそのCMをきっかけに、地元でいろいろお仕事をいただくようになったんです。