才能がない太宰治になるのを恐れて、他人の才能を取り込む映画制作へ

 

――昭和という時代やアニメを愛する中川監督のもうひとつの特徴とも言えるのが、映画監督になる前から、詩人として活動されていたということ。17歳の時に詩集「雪に至る都」を出版されていますが、過去のインタビューなどを拝見すると、「高校時代はまだ映画を撮るという術がなかったから、詩を書いていた」とありました。

 

中川:はい。ちょっと恥ずかしいのですが。

 

――映画の脚本をご自身で書かれていることからも、言葉に対するこだわりがものすごく強い方だと思うのですが、本来、映画制作と詩作って、対極にある気がするんです。徹底的に己と向き合う詩作から、絶対に一人きりでは作れない映画制作へと、そんなにあっさりと移行できるものなのかな? と気になって。

 

中川:詩は、書くことを通して新しい自分に気づきたいという感情から生まれているか、あるいは特定の誰か一人に読んでもらいたいという気持ちから発しているのではないでしょうか。「これを全世界に見てもらいたい!」というモチベーションで生まれるものではない気がします。それに対して映画は、ある種の公共性があるというか、自分が観るためだけに、とか、特定の誰か一人のために、というのは例外的なのではないでしょうか。

 

――なるほど。

 

中川:そういう意味で、詩と映画は、その発生の仕方が違うからこそ、届けられる範囲のそもそもの前提がだいぶ違うと思います。それだけ自己との距離が近いからこそ、それ一本だけでずっとやっていくと心が摩耗していくのではないかという恐れを、自分は抱いていました。

 

――それは感性がすり減るような感じですか?

 

中川:単純に苦しくなるというのか、才能のない太宰治になったらやばいぞと思って(笑)。太宰治のような天才であれば作品が残るから別ですが、自分の場合、たいしたものを書くこともできずただ憂鬱になって38歳で……という図しか見えませんでした。そうなるより他人の才能を取り込める方が、生き延びられると思いました。みっともない話に聞こえるかもしれませんが(笑)

 

――ほぉ~!

 

中川:映画は一人じゃ絶対に作れないものだから、映画を作るっていう行為自体が、社会との接地面になり得る。詩を書く半面で、社会性を持ちたかったのかもしれません。

 

――なるほど。

 

中川:20歳くらいの時から映画を撮り始めましたが、いま自分が関わっている多くの人たちは映画を通して知り合いました。もし映画を撮っていなかったら自分は今以上に孤独というのか、拗ね者になっていた気がします。

 

――はい。

 

中川:最近また久々に詩やエッセイなどを書くようになりました。それはきっと、ようやく映画を作ることに対して一呼吸置けるようになってきて、自分の中でパーソナルな部分に向かいたいっていう気持ちが生まれてきたから、また書き出しているんじゃないかなと感じます。

 

加藤:パーソナルというところで言いますと、中川監督の前作『走れ、絶望に追いつかれない速さで』は、本当にインパクトが強くて、20代前半の頃の「どうしようもなさ」が剥き出しになっている作品だと思うんです。それに比べると今回の『四月の永い夢』は、それをいったん乗り越えて、少し落ち着きがある感じがして。

 

――ちょっとそれに補足させていただくと、『走れ~』の方は、太賀さん演じる主人公が絶望に追いつかれるどころか、グングン引き離して、希望に向かっていくような印象を受けたんですが、『四月の永い夢』の方は、「自殺した親友の恋人」である女性の視点から描かれているせいか、哀しみを乗り越えるというより、主人公が恋人の死を受け止めて、そのまま内包していくといった違いがあるように感じたんですよね。

 

中川:まさに、そういうイメージですね。

 

加藤:それって、『走れ~』は主人公が男性で、『四月~』の主人公は女性だからっていう一人称の違いから来ているんですか?

 

中川:面白い質問ですね。それは初めて訊かれました。何故なんでしょう。う~ん……それはおそらく失った対象と「張り合っていたかどうか」と関係があるのではないでしょうか。

 

――張り合うとは?

 

中川:やっぱり『走れ、絶望に追いつかれない速さで』は(同性の)同級生の話だから。同級生の男が一緒に居たら、多少張り合う部分があるんじゃないかと思うんですよね。張り合えるヤツだっていう信頼が、友情を生み出すところもあると思うんです。

 

ただ単に気が合う友人っていうだけじゃなくて。張り合える、いわば分身のような存在が亡くなったときに、それを越えて行かないと自分にはもう先がないわけで。その孤独と切迫感というのかな。

 

――なるほど。

 

加藤:すごくよくわかります。

 

 

中川:だから、主人公が男性だから、女性だからというのも、もしかしたらあるのかもしれないけれども、どちらかというと関係性の違いの方が大きいというか。今回の作品においては、主人公の初海が亡くなった彼のことを追い越していく必要は無いわけなんです。

 

――そういうことだったんですね。実は、私がこの作品を拝見して一番印象に残ったのは、「出せなかった手紙」のことなんです。恋人の死後3年が経過してから、故人のパソコンに保存されていた彼女宛の手紙が届けられますよね。そして彼女もこれまで何度も手紙は書いたけど、出せなかったと後にモノローグで語っています。お互いに「出せなかった手紙」がこの物語を生み出しているような気がしたんです。

 

中川:手紙って、本来は伝達の手段であったはずですが、今の時代は伝達手段が電子的なものに置き換えられているので、紙に書く手紙というのは、ある現実を再解釈のために書かれている側面もある気がします。自分の気持ちを自分で整理するための、より日記に近いメディアになっているって言ったらいいのかな。

 

――そういえば確か、太賀さんから本作に向けて贈られたコメントの中にも、「本当の気持ちが伝わるように、素直な言葉だけを並べて書いた手紙の追伸のよう」っていう表現がありましたよね。

 

中川:あぁ、書いてくれていましたね! 僕もそういうことがあります。追伸ばっかりガチなこと書いてしまって(笑)。「本当はこれだけ言いたかったんでしょ!」 みたいな。

 

――それ、よくわかります! 私もたまにやります(笑)。

 

中川:ははは(笑)。

 

――あと、中川監督が「娯楽性と作家性が融合した映画を撮っていきたい」と書かれているのも拝見したんですが、商業的なものと自己表現との折り合いを、どうやってつけていこうと考えられていますか?

 

中川:ここは僕らの時代の映画制作者にとって、すごく悩ましい問題だと思います。昔はプログラムピクチャーとして、たくさん映画を作っていく生産ラインの中で、段々自分の個性が発見されていったところがあると思うんです。僕らの好きな山田洋次監督にしてもそうだと思うし。

 

でも、現在は、そういったプログラムピクチャーから作家的なものに移行していく明確なプロセスは存在しない気がします。だからもうその問題は一人ひとりの作家がどういう仕事をしていくかという、個人の問題になっている気がします。

 

――確かに、そういう状況ではありますよね。

 

中川:すでにちょっと先行する世代の監督がたも、それぞれの答えを模索されていると感じます。深田晃司監督も、石井裕也監督も、沖田修一監督も……誠実にこの問題と戦われている気がします。そこを考えつつ、ときにブレることもありながら、それでも浮上してくるものが、結果的にその監督の作家性と呼ばれるものになるのではないでしょうか。

 

――なるほど、面白いですね。中川監督がこれからどんな作品を撮られるのか、すごく興味深いです。「親友の死」っていう出来事からの時間的な距離も含めて。

 

中川:ひとつ、新しい題材と向き合わなくてはならない時期でもあると感じていますが。

 

 

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