「最愛の息子が戦死した」という誤報によって翻弄される家族の姿をスタイリッシュで洗練された映像で描いた『運命は踊る』が、9月29日(土)より全国順次公開されます。

 

長編映画デビュー作『レバノン』に続き、本作でも見事ヴェネチア国際映画祭の審査員グランプリを獲得。2作品連続の主要賞受賞という快挙を成し遂げ、世界中から注目を集めるイスラエルのサミュエル・マオズ監督に、SWAMP(スワンプ)はインタビューを敢行。マオズ監督流の制作スタイルから、3部構成で綴る本作品に込めた想い、そして幼少期の素敵な映画の原体験まで、たっぷり語っていただきました。ぜひ最後までお楽しみください!

 

「美しい」という言葉を何度も発するよりも、美しいビジュアルの方が雄弁なんだ

 

——緊迫感あふれる第1部に対して、第2部のヨナタンのシーンは戦場であるにも関わらずとても幻想的で、ある意味SF映画のワンシーンを観ているかのようでした。ここまでガラッと世界観が変わる作品も珍しいですよね。完全に心を掴まれました。

 

サミュエル・マオズ監督(以下、監督):第2部は2つの理由からあえてシュルレアリスム的に描きたかったんだ。下手をすれば第2部はイスラエルのIDF(国防軍)を非難しているような側面もあり、非常にセンシティブで、ある意味タブーを扱っているとも言えるかもしれない。IDFというのは、ホロコーストのトラウマからイスラエルの民を解放した軍であり、イスラエルの中では触れてはならない領域なんだ。だからこそ、映画で描くときには比喩的な表現にしなければいけないと考えた。

 

ヨナタンたちが監視する検問所は、文字通りの検問所であるだけでなく「社会の鏡である」ということを意図しているんだ。つまり、あの検問所はイスラエル社会の縮図。どこか不穏な雰囲気に包まれていて「外界は怖いんだぞ!」というような。でも、実際には何もないんだ。つまり、アンタッチャブルな問題に触れさせるためのツールとして、シュルレアリスム的な表現方法を選んだんだ。

 

観客にはもう少し社会全体を俯瞰で眺めて欲しいと思っていて、ディテールをセリフで細かく伝えるのではなく「これが我々の社会の有り様である」ということをビジュアルで示したくて、地面から数インチ浮遊しているようなイメージで描いている。毎日ちょっとずつ備蓄庫が傾いているのも、ただ単に備蓄庫が傾いているというわけではなく、我々の社会が少しずつ傾きつつあることのアレゴリーなんだ。

 

2つ目の理由としては「映画的に考えたかった」ということが挙げられる。あの検問所は彼らの日々のルーティーンを映し出しているわけだから、普通にリアルに描いても面白くない。つまり、この映画は僕の内的世界を反映したものなんだ。

 

——前作の『レバノン』とはうってかわって、本作はスタイリッシュな映像で描かれています。

 

 

監督:『レバノン』と『運命は踊る』の類似点よりもっと広い話になるんだけれども、僕はビジュアルや音を重視するんだ。セリフは少ないにこしたことはないと思っている。だからどちらの作品にも、あまりたくさんのセリフを入れていない。出来るだけそぎ落としたいと考えているんだ。

 

例えば、第1部で軍の役人が「あなたの息子が亡くなりました」と告げに家にやってきて、ミハエルの妻が玄関で卒倒するシーン。その後ろに絵画がかかっているんだが、それはミハエルの精神状態をエックス線で覗きこんでいるような絵画なんだ。まるでやたら整頓されたカオスが、ブラックホールの中に引き込まれていくかのようなイメージなんだけどね(笑)。そうやって室内の装飾物で登場人物の心情を雄弁に語っていくのが、僕の映画のスタイルなんだ。決して「ありのままにナチュラルに描くこと」が、リアリズムであるという訳ではない。僕は、観客には「映画体験」をしてほしいと思っている。だからこそ、キャラクターの心の深部をビジュアルで表現することを心掛けているんだ。

 

それからもう1つ例を挙げるとするなら、第1部のアパートのシーンに出てくる「引きの構図」が分かりやすいんじゃないかな。ミハエルが最初に発する言葉は「俺はいま1人で居たいんだ」というものなんだけど、カメラに背を向けて1人でポツンといる引きの画なんだ。観客はそれを一目見ただけで「ミハエルがどんな男で、どんな人生を送っているか」を理解できるはずだ。彼を取り囲むアパートの様子が、とても冷たくてシンメトリーで幾何学的で、細部までこだわりがありすぎるあまり、観客に不快感をもたらしてしまうようなデザインになっている。その有り様が、どんなダイアログよりも雄弁に彼自身を物語っていると思うんだ。説明セリフにするなら4〜5ページ必要になるかもしれないけど、僕はそれをたった1枚の画で全て語りたいと考えたんだ。

 

——『レバノン』にも『運命は踊る』にも、兵士が戦場で仲間を相手に、個人的な思い出を物語るシーンが登場するのが印象的でした。

 

監督:確かに僕の作品は一般的な会話よりも、モノローグの方が多いかもしれない。なぜなら「言葉」というものは、人が「真実」に辿り着く前の「フィルター」にすぎないと感じているからなんだ。むしろ僕の映画で「真実」を語っているのは、人の目線だったり、立ち振る舞いだったりすると思う。それでこそ真に迫った描写が可能になる。実際に「美しい」という言葉を何度も発するよりも、美しいビジュアルの方が雄弁だし、使用する言語が異なる国でも、字幕なしで感じ取れるという利便性もあるしね(笑)。

 

 

——ある意味では、どちらの作品も監督ご自身の実体験をもとに、「戦争」を描いているとも言えますか。

 

監督:人は往々にしてジャンル分けしたがる生き物ものだから、僕が手掛ける作品は「戦争映画」と言われがちなんだけれど、僕自身はそうではないと思っている。一般的な「戦争映画」というのは、勝利を描いたり敗北を描いたりするものだけど、僕の映画で描いているのは極限状態にある人間の精神の有り様なんだ。そういう意味では、例にあげるのはおこがましく感じるけれども、『地獄の黙示録』(1979年)とか『ディア・ハンター』(1978年)とか『シン・レッド・ライン』(1998年)と類似していると思う。結局、戦地というのは1つのプラットフォームにすぎなくて、それを使って人間の有り様をどんどん掘り下げていき、その結果我々が自分自身を理解するための手法だと捉えているんだ。

 

 

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