この映画においてはラクダにはラクダの役割がちゃんとある

 

——ヨナタンが戦地で書き綴っていたイラスト「ベッドタイムストーリー」がアニメーションのように動き出すシーンが印象的でした。

 

監督:僕のお気に入りのイスラエル人のイラストレーターと一緒に、試行錯誤しながら何度も描き変えたんだ。人の注意をパッと惹きつけるような画風にしたくて、最終的にああいう形に落ち着いた。あのシーンでは息子の脳内で語られたストーリーの続きが父の目を通して語られるわけだけれども、息子はちゃんと父親が抱えていたトラウマを見抜いていた、ということなんだ。だから顔にバツ印が付いていた。ミハエル本人には自覚がなくても、周りはちゃんと気づいているという状態を描きたかった。「大きすぎる代償」を払って、初めてミハエルは目を覚ますんだ。

 

——本作では、ラクダが非常に重要な役割を果たしていますね。

 

監督:イスラエルの死海にはちゃんと演技指導を理解できるラクダが居て、「アクション」「カット!」」と声を掛ければちゃんとコミュニケーションが取れるんだよ(笑)。というのは冗談だけど、この映画においてはラクダにはラクダの役割がちゃんとある。ドラマツルギーでいうと、「チェーホフの銃ではない銃」とでも言ったらいいのかな(笑)。「チェーホフの銃」とは「1幕目でテーブルに銃が置かれ」「3幕目では誰かが撃ち殺されるだろう」という(物語に登場するものの必然性を表した)ものなんだけれども、ある意味この映画におけるラクダも、そういった存在であると言えるんだ。でも最終的には「銃」と違って、観客の予想を裏切る働きをするんだけどね。

 

——確かに「まさかラクダがここで絡んでくるとは!」と呆気に取られました。

 

監督:この映画でラクダが象徴しているのは、彼らがあの砂漠にいることの不毛さなんだ。第2部の最初にラクダが登場するだけで「こういう世界観なんだな」と観客に分からせる意味がある。検問所で兵士が銃を担いで踊っていて、ラクダがトコトコやってくるだけで「あぁ、ここは前線ではないんだな」というのが一瞬にしてわかる。つまり、あのラクダは現在のイスラエル社会がやっていることの不毛さを描いているんだ。イスラエルという国家は「我々は今、実存的脅威を抱えている」とか「我々は終わりなき戦争に囚われている」という意識にがんじがらめになっているんだけれども、実情はそうではない。だからこそ、あの検問所は社会の鏡であると言えるんだ。

 

——なるほど。確かにあのシーンで一瞬にして世界が変わります。

 

監督:監督と観客の間には約束事があって、観客は「監督のビジョンについていきますよ」と思いながら映画を観ているんだ。でもそれには条件がある。最初から最後まで音階を変えずに進めていけば観客はちゃんとついてこられるんだけど、僕の場合はこの3部構成で観客を裏切っているんだ。最初の35分で第1部が終わり、クライマックスを迎えたところで観客をまったく違う世界に連れて行ってしまう。キャストも変え、場所も変え、スタイルも変え、画風すら変えてしまう。だからこそ、第2部の最初の1〜2秒でちゃんと観客の心を掴んでおかないと、観客はすぐさま離れていってしまう。

 

極度の緊張感を与えてから「そろそろ一息付きたいだろうな」というのを先回りして読み取って、ちょっとした笑いを入れることでギュッと心を掴めるんだ。だからいきなり兵士が踊ったり、ラクダがやってきたりするわけなんだよ。

 

——いまのお話を伺って、この作品に込められた監督の想いがとてもよくわかりました。

 

監督:僕が『運命は踊る』という作品を通じて描いていることは、政治的なメッセージというよりも、離散してしまった家族が絆を取り戻す過程に感じる「愛と罪悪感の間の葛藤」であり、「とてつもない苦しみを人はどのように愛で乗り越えていくのか」といったことなんだ。こういったことは、おそらく中東の歴史や哲学に明るくなくても、理解できるものだと思う。声高に叫んでも人はなかなか聞く耳を持たないけど、人の心に訴えかけるものを作れば、それはちゃんと届くものだと僕は信じている。

 

何故なら、我々は心の奥底では繋がっているはずだからね。時としてブラックユーモアを挟みながらも、僕はこれからも人間の有り様を描いていきたい。そこに副次的に哲学が入ってきたり、政治的な色を帯びたりすることもあるけれど、僕のやりたいことの真髄はそこではなくて、あくまで「人間を描く」というところにあるんだ。

 

 

■次ページ:カメラを線路に持っていって据え置いたら、汽車がやってきて当然のごとくカメラは粉々に砕け散ってしまった(笑)

 

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